ボスニア・ヘルツエゴビナ問題-1



ボスニア・ヘルツェゴビナ
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  ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパバルカン半島北西部に位置する共和制国家首都サラエボボシュニャク人クロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。
  ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビアモンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。

概要
  他民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持つ場所の一ヶ所となっている。また、かつてはユーゴスラビアの構成国の一つであった。
  ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。紛争終結後も、3民族の代表が輪番制で国家元首大統領評議会議長)を務めている
国名
  正式名称は、ボスニア語クロアチア語 Bosna i Hercegovinaボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ。公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina[ˈbɒzniə ənd ˌhɛərtsəɡəˈviːnə, ˌhɜːrtsəˈɡɒvᵻnə]日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ
古代・中世
  現在のボスニアヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族イリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀ローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教カトリック正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。
近世(オスマン帝国統治時代)
  15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。
近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代)
  19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島オーストリア・ハンガリー帝国ロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年ボスニア蜂起(1831–1833)。1875年ヘルツェゴヴィナ蜂起が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニアヘルツェゴビナサンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビア大セルビア主義汎スラヴ主義を刺激。1914年にこの地で起きたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金になった。
  第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。
第二次世界大戦
  第二次世界大戦時、ナチス・ドイツと同盟する枢軸国ユーゴスラビアに侵攻。ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。
社会主義時代(詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国」を参照)
  ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。
  ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。
  長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック (音楽)ポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」および「ユーゴスラビア紛争」を参照
  1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年スロベニアクロアチアマケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。
  正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに近い言語を使っていたものの、民族的アイデンティティや宗教を異にしていた。
  1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。
  ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導下、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。
  2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。
  1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年国際連合の調停で和平協定(デイトン合意)に調印し、紛争は終結した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
  デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態も度々起こっている。国政に対して3民族が事実上の拒否権を持ち、大統領が輪番制であることもあって、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表が実質的な最高権力者となっている。
  2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮しSFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUが編成した欧州連合部隊「アルテア」(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。アルテアは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点で約2,200名となっている。
  2013年10月1日から10月15日に掛けて、独立後初の国勢調査が行われることになった(質問項目は主に誕生日、生まれた場所、職業、学歴など)。過去に2001年2011年にも実施しようとしたものの、民族間の対立に伴い実現しなかった。国勢調査の実施は今後のEU加盟や政策立案のために必要不可欠ではあるものの、民族構成によって政府の主要ポストや公務員の数を振り分けるなど国の根幹に関わるため、政治利用されるばかりか危うい民族バランスの均衡が崩れる可能性もはらんでいる。事実、この国勢調査を利用し、各勢力が自民族に有利に働くため、教会・モスクにいる聖職者を通じて働きかけと称した誘導を行うといった事態も見受けられた。また各民族が働きかけた不正行為も明らかになった。一方で、民族の色分けや少数民族差別(主にユダヤ人やロマ)を嫌った人々によるコスモポリタニズムの胎動がどこまで進行しているのかもポイントになっていた。国勢調査の結果は11月10日まで行われる不正調査の報告と修正を経て、2014年1月に判明する予定とされ、非公式速報値では人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%となった
NATOおよびEUへの加盟構想
  ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年5月22日に国際連合に加盟したが、その後の民族対立、内戦は悲惨であった。民族対立は完全に解消されたわけではないが、「欧州大西洋機構への統合」、即ち欧州連合(EU)及び北大西洋条約機構(NATO)加盟が民族を超えた共通の目的であり、ボスニア政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。
  2000年12月、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦共和国との間で正式な外交関係を樹立した。また警察改革や公共放送法の採択で進展があったため、EUは2005年11月7日安定化・連合協定締結交渉の開始を承認した。なお、EU加盟は3民族の共通目標とされており、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗にもそれが現れている。
  2016年2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はEUへの正式な加盟申請を行った。ベルギーブリュッセルにおいて、ボスニア・ヘルツェゴビナのドラガン・チョヴィッチ大統領評議会(幹部会)議長が、EU議長国オランダのクーンデルス外相に対して、申請の文書を手渡した
国際関係(詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナの国際関係」を参照)
日本との関係(「日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係」も参照)
地理
  国土はおおよそ三角形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。
  南部には海抜高度2,000mを超える山地が多い。アドリア海に沿ってディナル・アルプスDinaric Alps)が延びており、国土の南西部は石灰岩によるカルスト地形で乾燥している。南西のネウム付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きなはない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としてはモナコに次いで世界で2番目に短い海岸線を持っている。
  国土の南部、ヘルツェゴビナ地方をネレトヴァ川が貫き、クロアチア領を経てアドリア海へと注いでいる。また北部にはサヴァ川が流れ、クロアチアとの自然国境となっている。サヴァ川はその後セルビア領へと続き、ドナウ川に合流している。国土の北東にある、サヴァ川に面した町ブルチコは、ボスニア・ヘルツェゴビナの陸上交通とドナウ川の水上交通路を結ぶボスニア・ヘルツェゴビナ最大の港町である。サヴァ川の支流ボスナ川は、サラエボ近郊の山中から流れ出し、北に向けてゼニツァドボイボサンスキ・シャマツを経てサヴァ川に合流している。このほかにサヴァ川の支流としてウナ川ヴルバス川などがある。また、国土の東部にはドリナ川が流れ、セルビアとの国境となっている。
  気候は、北部のボスニアはサヴァ川流域を中心に大陸性気候、南部のヘルツェゴビナはネレドバ川河口部が地中海性気候となっている。ボスニアは概して温暖だがは非常に寒く、一方のヘルツェゴビナ(特に石灰岩地帯)は10月~1月の冬場にかけてが多く、が非常に暑い。
経済(詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナの経済」を参照)
  2013年国内総生産(GDP)は約179億ドルであり[1]、日本の鳥取県とほぼ同じ経済規模である[12]。同年の一人当たりのGDPは4,620ドルである。経済的には、オスマン帝国の支配時代から農業に大きく依存する貧困な地域であり、ユーゴスラビアの成立後も、マケドニア共和国に次ぐ経済後進国であった。穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつてはタバコザクロブドウオリーブイチジクメロンなどの農作物が栽培され、主要なの飼育地でもあった。しかし、紛争によって農耕地の多くが破壊され、紛争終結後も利用できない土地が少なくない。
  現在の主要産業は林業鉱業、繊維業などである。林業ではカヤブナなどが産出される。鉱業ではボスニア大理石や建築用の石材、及び石炭マンガン水銀など多様な鉱物が、ヘルツェゴビナではアスファルト褐炭がそれぞれ生産される。しかし、失業率は48%(2006年時点)とヨーロッパの中でもトップクラスであり、特に若年層の失業インフォーマル経済による景気低迷が課題である。
  民間部門が弱いため、公共事業への依存度が高く、その公共事業の受注や選挙戦などに関連する汚職が深刻である。このため、若者を中心にEU諸国へ移住する人も多く、累計50万人にも達する。
  1992年の独立後、ボスニア政府はユーゴスラビア・ディナールに代わる独自の通貨の導入を決定した。しかし、ボスニア紛争時には、ボシュニャク人支配地域ではボスニア・ディナール、セルビア人支配地域ではユーゴスラビア・ディナール、クロアチア人支配地域ではクーナがそれぞれ使用されたため、統一通貨の実施は遅れた。1998年1月、ボスニア政府は新通貨として兌換マルクを発表した。
民族
  住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。
  元々この地域には、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が概ね拮抗する割合で暮していた。その為、ユーゴスラビア連邦制を実施する際、他の5つの共和国は主要民族に基づいて樹立されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナは地域を基礎として樹立された。
治安
  ボスニア・ヘルツェゴビナでは、紛争終結から25年が経過し、国際社会の支援等もあり、平和の定着と紛争で破壊された経済・社会インフラの回復が進んでいる。
  それに伴い政治情勢も安定してきてはいるものの、同国内には未だに紛争時に使用された武器が数多く出回っており、これらを使用した強盗事件や発砲事件ならび爆弾事件が散発的に発生している。2018年10月には、サラエボ市内の駐車場において銃器を所持した自動車の窃盗グループが取締りの警察官2名を射殺する事件等が発生。さらにはテロの脅威も国内に存在しているため、滞在時にはこうした危険についても注意が必要とされる。
  サラエボ市等の主要都市においては治安は比較的良好に保たれており、犯罪発生件数は2015年と比較して2019年には全体で41%減少している。その内訳として窃盗及び強盗事案は減少しているものの、薬物関連犯罪が増加。また、ここ数年では路面電車(トラム)やバスの中でのスリ被害や市内観光中にリュックサックの中に入れていたパスポート現金を盗まれる被害等も散見される。加えて武器を用いた強盗事件等の凶悪犯罪も発生しており、地元民のほか、一見して地元民とは異なると分かる中東・アフリカ方面からの不法移民により、日本人が銃器ナイフで脅されて金銭を奪われる事件も発生しているため、滞在中は十分注意を払う必要があり常に警戒を求められる







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